上州高崎の歴史

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help リーダーに追加 RSS 第9話 駿河大納言徳川忠長

<<   作成日時 : 2008/01/20 22:50   >>

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 徳川忠長は3代将軍徳川家光の実弟です。一時は駿河・遠江55万石を与えられ、駿河大納言と呼ばれた人物です。
 幼いころから、病弱の家光より、利発だったので、両親から兄以上に溺愛されました。母の崇源院は将来家督を忠長に継がせようとまでします。しかし、祖父家康が下した判断は長子である家光を将軍とするとのことでした。
 やがて、幼いころ甘やかされて育った忠長は数々の乱行を繰り返すようになります。例えば、乱行には次のようなものがありました。

(その一) 当時殺生が固く禁じられていた浅間山で、忠長は野猿狩りをやると言い出します。家臣たちは富士大権現の怒りに触れると反対しますが、聞き入れず強行してしまいます。捕獲した猿はなんと1200匹にもなったといいます。大納言はご満悦でした。

(その二) 猿狩りの帰路、大納言は乗っていた籠の中から、理由もなく小刀で籠の担ぎ手の背中を突き刺しました。担ぎ手は一命を取りとめたものの恐ろしくなって逃げます。それに怒った大納言はすぐに担ぎ手を捕らえ、その場で首をはねてしまいます。

(その三) しばらくして今度は鷹狩りを行います。しかし、今度は一羽も獲物が獲れません。その日は強風で寒かったので、帰路、寺で焚き火をして暖を取りました。小姓が薪に火をつけようとしましたが、薪が湿っていたため、なかなか火がつかず、煙が立つばかりです。獲物がなく、いらいらしていた大納言は火をつけようとかがんでいた小姓の首を切り落としてしまいました。

 このような数々の乱行が度重なり、忠長は領地を没収されてしまいます。そして当初は甲州に、父の秀忠が死んだ後は、高崎城に幽閉されてしまいました。高崎城には当時、譜代大名の安藤重長がいたので忠長の身柄を管理しやすかったのです。
 高崎城で失意の生活を送った忠長はついに最後は自刃してしまいます。28歳でした。
 実は、その時の逸話があって、祖父家康から受け継ぎ忠長が所持していたとされる徳川家の家宝、不動明王像が遺骸から見つかりませんでした。ちなみに、この不動明王像は古くは桓武天皇から、やがて武田信玄に伝わり、そして家康に伝わったものでした。家康は戦場で戦勝祈願のためこの不動明王像を肌身離さず持ち歩いていたといいます。伝説によれば、この不動明王像は後に出てくることになるのですが・・・

 駿河大納言の亡き骸は高崎にある大信寺に葬られました。

             大信寺(正面から)
画像

             大信寺(裏手から)
画像



          

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コメント(15件)

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徳川忠長が高崎で没したのは知っていましたが、菩提寺も高崎にあるとは知りませんでした。
死後は許されて、増上寺か寛永寺に眠っているのだと漠然と思っておりました。
歴史好きなネット仲間と春に高崎方面の源氏史跡巡りを計画しているのですが、ここも候補地に入れたいと思います。
真偽はともかく、一応徳川氏も源氏を名乗っていますから(^_^;)
Z31
2008/01/23 15:52
こんばんは。高崎方面にいらっしゃるのですか?ぜひお待ちしておりますm(_ _)m。もしおっしゃって頂ければ迷惑にならない程度に道案内をしますので、その時は遠慮なく言ってくださいね。春になれば暖かくなって周りやすくなりますから、史跡めぐりも楽しみですよね。
まさと
2008/01/23 19:38
ありがたきお言葉なれど、一人旅ではなく三人旅の予定で高崎以外もいろいろ回るのでかなり行き当たりばったりになりそうです。
一人旅でそちらにお邪魔することがあった際には、ぜひとも道案内をお願いしたいと思います。
お心遣い感謝します<(_ _)>
Z31
2008/01/24 17:39
こんばんは〜♪
私的には、不動明王像伝説が興味深々ですね〜♪^^この忠長卿の子の松平長七郎が、紀州藩の庇護を受けて和歌山で亡くなったという真偽不明の伝説もあるようですよ。(⌒_⌒;
mikomai
2008/01/24 19:13
Z31さん
なるほど、了解いたしました!ナビ取り付けたのですよね^^機会があれば、その時は!
まさと
2008/01/24 23:21
mikomaiさんこんばんは。その紀伊藩主というのは徳川頼宣ですよね?長七郎と江戸商人の娘の間に子どもが生まれました。鷹司松平家の祖となる松平信平です。実際の史実では忠長には子がいませんが、長七郎の墓が実際長崎にあるらしいですね。弘法大師が彫ったとされる不動像は、長七郎の子が持っていたきんちゃく袋の中から発見されます。で、町奉行神尾備前の守が大金で買い上げます・・・と続きます。この伝説には東京版と関西版があるようです。
まさと
2008/01/25 00:04
こんにちは〜♪
なるほど、不動明王伝説と松平長七郎伝説は、ワンセットだったわけですね☆(^―^)
詳しいご解説、ありがとうございました〜♪
mikomai
2008/01/25 17:49
こんにちは。
ちなみにかつて、当伝説を題材にした「長七郎江戸日記」というテレビラマが里見浩太郎の主演で放映されていたみたいですね^^
まさと
2008/01/26 11:56
こんにちは♪
関連してですが、駿河大納言は徳川姓ではなく、松平
姓だったという説もあるそうですが?
(・・?)
mikomai
2008/01/26 17:11
こんばんは。徳川姓を名乗れなかったとすると、扱いは将軍家・御三家とは別格ですよね。徳川と松平の区分、そのあたりは非常にシビアでしたからねえ。ただ駿河時代は、水戸藩の石高を越えていたため(秀忠による加増により)、当初の御三家は尾張、紀伊、駿河とする説もあるようですね。
まさと
2008/01/26 23:37
「長七郎江戸日記」は日本テレビ系列で放送していましたね。
テレビ朝日系列でも、「長七郎江戸日記」より前に同じ里見浩太郎主演で「長七郎天下御免」という番組が放送されていました。
Z31
2008/01/26 23:39
里見浩太朗、いい俳優ですね。でもやっぱり水戸黄門の助さんのイメージが未だに強いですね^^
まさと
2008/01/27 20:11
>徳川姓を名乗れなかったとすると、扱いは将軍家・御三家とは別格ですよね。

「徳川姓でないと将軍にはなれない」と書かれた資料をよく見かけますが、五代綱吉の館林家と六代家宣の甲府家は松平姓だったそうです。
逆に松平姓でも駿河、甲府、館林は別格だったのかもしれませんね。
四代家綱に嫡子がいて、その家が長く続けば、いずれは他の松平家と一緒の扱いになったのでしょうけどね。
綱吉も家宣も先代将軍の養子になるという形で家を継いでいるので、将軍になって徳川姓になったわけではなく、徳川姓になってから将軍になったということで「徳川姓でないと将軍になれない」というのは間違いではないと考えることもできますけどね。
Z31
2008/01/28 18:52
Z31さん
前から実はここの区別がスッキリしなかったのですが、なるほど〜。でも綱吉は家光の実の子供(4男)なのですよね?でも館林藩主時代は松平姓を名乗った(名乗らされた?)とweb情報でなっていました。WEB情報が正しいのか判りませんが、将軍家と一藩主とで姓を区別している(させる?)あたり、徳川姓の使用に関して幕府はとても気を遣っていたのは間違いなさそうですね。
まさと
2008/01/28 20:32
姓に関して区別はしても、待遇については相当の扱いだったのでしょうね。同じ松平でも。
まさと
2008/01/28 20:40

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