|
長野氏はもともと南北朝末期、井野川流域の開発を手がけ、その後浜川(高崎市浜川町)に拠点を移し、西上州の武士団をまとめていった一族である。 一族の中で、もっとも力を振るったのが長野業政(ながのなりまさ 1491〜1561)であった。当時関東管領であった上杉憲政(うえすぎのりまさ)は平井城(藤岡市)にいたが、南方から侵略してきた北条氏康に追われ、いったん越後へと退いた。長野業政は上杉憲政の関東侵略拠点の役割を任されるいっぽう、上杉氏の後ろ盾を受けることとなった。 業政は12人の娘を近隣の武将である小幡(甘楽町)、武州忍、和田(高崎市高松町)、倉賀野、厩橋(前橋市)などに嫁がせるなどして、西上州武士団の団結をはかっていった。 業政の機動力は「箕輪衆(みのわしゅう)」といわれる在郷武士団であった。上杉謙信の関東出兵に際しては、19人の箕輪衆が参陣したという。(関東幕注文) 業政の居城は、榛名山麓から連なる尾根の末端に、祖先によって築かれた箕輪城であった。 箕輪城はいくつもの巨大な空堀をもつ堅固な山城であるが、それにも加えて業政の采配は賢明であった。隣国の武田信玄は6回にわたって城を攻めたが、業政はわずかな兵でいずれも撃退している。 業政は死ぬ直前、子の業盛(なりもり)を呼び寄せて言った。 「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」 業政の死を知るやいなや、信玄はすぐさま兵を差し向け、ついに箕輪城を陥落させてしまった。子の業盛は父の遺言を守り、最後の一兵まで抗戦したが力及ばず、これまた父の遺言に従って、敵に捕まる前に城内の持仏堂に入って自害してしまった。 業盛の辞世の句である 「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の里かな」 長野父子は死んでしまったが、その後も箕輪城の地理的重要性は変わらず、秀吉から関八州を与えられた家康により井伊直政という有力大名が12万石で配置されている。 箕輪城跡に行ったことのある方ならわかると思うが、現場は典型的な山城である。持仏堂があったところには当時からの古い井戸が残っている。ここで業盛のあとを追って何百の兵が自害したかと思うとなんともいえない気持ちになる。思わず手を合わせずにはいられなかった。 |
| << 前記事(2007/12/15) | トップへ | 後記事(2007/12/30)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
はじめまして♪ |
mikomai 2007/12/23 13:39 |
どうも、コメントありがとうございます。 |
まさと 2007/12/24 18:15 |
今晩は、まさとさん♪ |
mikomai 2007/12/24 21:14 |
滝坂の道ですか。 |
まさと 2007/12/25 19:28 |
勉強になりますね〜 いつも通過ばかりしてたから・・・少し意識して勉強しないと、新田義貞の響きがなんか懐かしい・・教科書に出ていたかな? |
フラット 2007/12/25 22:56 |
コメどうもです。 |
フラット 2007/12/27 21:14 |
いつぞやは私のブログを訪問してくださってありがとうございました。 |
赤城の山姥 2008/09/26 14:23 |
コメントありがとうございます。長野氏の末裔の方ですか?それは貴重なご経験をされましたね。こちらこそ色々と教えてください。よろしくお願いします。 |
まさと 2008/09/27 01:11 |
| << 前記事(2007/12/15) | トップへ | 後記事(2007/12/30)>> |